父の納骨の日

2010-10-10

納骨

今日は6月に亡くなった父の納骨の日、一昨日の昼から納骨式の際のお供え・花の買い物、お寺さんへのお迎えの連絡(お寺から霊園までちょっと距離があるのと、雨が降りそうなのでお迎えにあがりますが?という連絡)、霊標をたのんだ石材店への確認と納骨の際は何を準備するのかという問い合わせ(遺骨と埋葬届とお供え・花とお布施だけでいいそうだ)、霊園に届ける埋葬届けの記入など納骨の準備をしていた。

まあ準備といってもやったことはしれている。おかんとお供え・花の買い物と電話2本と書類1通書いただけ、あとはお布施と納骨式の準備をしてくれた石材店の方へのささやかな心づけを用意するだけ。

祭壇の準備や納骨を入れるさらし袋、線香、蝋燭、焼香台、パラソルなどから遺骨の移し変えまですべて石材店がしてくれるそうなのでほんとに助かった。

父が亡くなってから丁度4ヶ月、一周忌まで当面の法事・法要は今日の納骨で一区切りとなる。私の無知さ故に、葬祭・法事の儀礼、しきたりに反したことばかりしてきただろうが、父には「これくらいで勘弁して」と今日納骨の際に謝っておこう。

今、葬儀・法要 不幸があった時の備忘録 として今回の葬儀・法事のことをまとめているのだが、ようやく葬儀社会館での通夜前まできたところである。

それでこれから通夜・告別式(初七日)と葬儀会館での2日間のことを備忘録として残していくつもりなのだが、通夜・告別式の記憶があまり思い浮かばないのである。厳密に言えば思い浮かばないのではなく、正確にはあまり考えること、するべきことがなかったような気がする。

葬儀会館に入ってしまうともう父の弔いだけになったということ。実際、決めたこと、やるべきことはあったが、必要なことは順を追って葬儀社の担当の方が言ってくれる。

もちろん弔問客への挨拶、お礼はあるのだが、葬儀会館に入ると私自身が次はあれをしなくてはいけないとか考えることがなくなるのである。言われたことを決めるだけという感じだ。

今改めて考えると、やはり病院で臨終をむかえてから葬儀社と葬儀の内容を決めるあたりまでが一番きつかった様に思える。父の死を悲しむどころか父の死をまだ受け止められていない間に、短い時間であれはどうするこれはどうするなどといろんなことを考え、行動しなければいけなかったからだと思う。処理能力の極端に低い私の頭ではフリーズ寸前だったかもしれない 苦笑

話は変わるが、少し前にテレビで葬儀についての番組があった。じっくりとは観ていなかったのだが、その番組で私が興味があったのは生前葬というもの。生きてる間に自分の葬式というかお別れの会をおこなうという主旨だった。

これなら私が亡くなった後に家族に面倒をかけることもないし自分の好きなようにできるし、私なら“バレーボール葬”なんてうれしいかも 「今日の主役は俺!」なんてTシャツを着て、1メートルほどの台に登ってアタック!動画に残してYou Tubeにアップ、なんていいかもね。

後は実際になくなった時は葬儀もなにもいらない直葬でいい。お付き合いのあるお寺さんはあるけど、葬儀・法事・法要は私の場合なしでと真剣に考えている。まあこんなこと考えてるうちはまだまだ大丈夫かな