忘れることが出来ない6月も終わり 父を失って感じたこと

2010-06-30

忘れることが出来ない6月も終わり 父を失って感じたこと

三七日も過ぎ、いろんなことがありすぎた平成22年の6月も今日で終わり。父がいないことを除いて、少しづつ日常の生活に戻りつつある。しかし、その「父がいないこと」の大きさがいろんな意味で身に沁みてわかった1ヶ月であった。

それにしてもこの1ヶ月で何回住所を書類に書いたことか・・・苦笑各種届出やら名義変更などなど・・・気のせいか字が少しうまくなった(なってないか 苦笑)

また何回役所に行ったことか・・・私がこの年まで生きてきた中で役所に行った回数の3倍は行っているな。こんなことで行きたくはないものであるが。

戸籍謄本、住民票、除籍謄本、原戸籍、印鑑証明、収入証明・・・手続きに必要な書類はいろいろあるものである。まあ、人ひとり亡くなれば当然といえば当然である。まして長い間一家の大黒柱だった父が亡くなったのだから、色々手続きが必要となる。

小さなところでは、電気、ガス、水道などの使用者の名義変更から電話、墓、家などの権利の相続まで、父が背負ってきたもの、築いてきたものを一つ一つ私がバトンタッチしていく。何だか最近肩にズッシリと重みを感じ始めている。めっきり白髪も増えてしまった。

でも本当のところ父から受け継いで重いものは、そんなモノや権利などではなく、父が生きてきた中で培った人間性、父の存在感なのではないだろうか。

うまく説明が出来ないが、例えば父が居る時に家族に与えていた安心感、母が感じていたであろう守られているという感覚、親戚や親しい人の中での存在感などなど、一家の顔的な部分というか・・・私などが引き継ぐことは到底無理なのはわかっているが、一応気にしているわけで、それが何よりも重いのであろう。

父の葬儀の際、私のいとこに留め焼香をお願いしたのだが、「俺では役不足やで」と断られた。一番近い親類なのだが、私が今感じている感覚に近いものがあったのだろう。

我家は大家でもないし、親類も少ないからそんなこと気にする必要は全くない。世の中でも核家族化が進んで、もはや●●家やら本家・分家などの概念もなくなりつつある。モノや権利が重いのではなく、父が大きかった